仕事

       今朝のテレビで75歳でロッククライミングに挑戦している女性を見た。60歳から

       始めた山登り。そして岩に挑戦し始めてから6年だとか7年だとか。

       40歳代後半から山に登り始め50代の終わりで「山はもう終わり」と断念した私

       から見ると、彼女の挑戦がどれほど凄いことか、どれほど肉体の老化に逆らう

       ことかよくわかる。肉体もきついが、どこかで落ちたり迷ったりして家族や世間の

       方々にご迷惑をかけてはいけないと、近所の低い山には今でも登りたいと思う

       が、かつて歩いた山々の稜線の雪やお花畑の花々を思い出すと、涙が出るほ

       どなつかしい。

       

       D社長が帰られてから、毎日毎日みんなで事業をするとはどんなことなのだろう

       と考えている。いずれ海に帰る人と山に住む私とが一緒になって。

       もう歳だ歳だとある意味投げやりになっていた私にD社長は、年齢に何の

       関係がある。今やるべきことをやりなさい、とカツを入れてくれた。少なくとも

       前より必死で考えようとしているだけでもマシになっています。

   

       これからの仕事は、特に被災地の仕事は、若い人はどこへでも行けるけど

       どこにも行けない高齢者の仕事は、ハローワークに行って雇われる仕事を

       探すだけでは済まない気がする。

       作って売り、採って売り、拾って売り、各々が自分で自分の仕事を作り出す、

       そういうこともアリではないのと、ぼんやりとですが考えています。

       

       、

大崎のお米

              バタバタしている間に稲田が黄金色になってきました。

       この辺りではまだ天日干しをする農家が多いので、刈り取った稲を架ける杭が

       所々に立ち始めました。雨が続く日々もありましたが、被害が出るほどの大雨も

       なく晴天が続き、気温も高かったので、素人目の私から見ても今年のお米は

       豊作なのではないかと思います。

       3月12日に福島の原発で爆発があった時、私たちは津波があったことも爆発が

       あったことも知らず、ライフラインが断たれた家の中で動かずに時が過ぎるのを

       待っていました。1週間経って電気がついてテレビを見て初めて世の中で何が

       起きているのか初めて知ったわけですが、その時期の田んぼはまだ雪を被って

       いました。雪の下には秋に刈り取った稲わらが置かれているところもたくさんあ

       りました。

       稲わらからセシウムが。稲わらを食べた牛の肉からセシウムが。その頃から

       それまでさほど気に留めていなかった放射能の農作物への影響が気になり

       始めました。私が花やお餅を出荷する道の駅でも放射能の勉強会がありまし

       た。種まきの時期からすると大丈夫のような気がするのですが、もしお米から

       セシウムが検出されたら、農作物は全てダメということになります。

        千葉県市川市のニッケコルトンプラザに東北復興市に行った時、コルトンプ

       ザにあるダイエー、とピーコックの食品売り場を一回りしてみて、東北の野菜や

       果物が全く置かれていないことに気付いてがっかりしました。

        あれからまださほどの時間は経っていません。でも道の駅のお客様は沢山

       の野菜を買ってくださっています。全て検査の結果が安全なものを販売してい

       ますが、なんといっても宮城県は米どころでお米が美味しい。安全でありますよ

       にと祈るような思いでしたが、今日大崎のお米は検査の結果セシウムは検出

       されなかったという発表がありました。

       これで安心して農家のみなさんはお米を出荷できますし、私たちも安心して食

       ることができます。本当によかった。稲田の黄金色が特別に鮮やかに見えま

       す。福島のお米にも一日も早くそんな日が訪れることを祈っています。

       

     

       

       

    

       

           

HPが出来上がりました

        海の手山の手ネットワークのHPができました。どうぞ皆さん、ご覧になってくだ

        さい。メンバーの商品が載っている中で私のお餅の写真の不味そうなこと。も

        っと美味しそうなお餅ともうすぐ咲きそろう彼岸用菊やその他の花が咲きそろ

        った花畑の写真を渡せばよかったー、と後悔してます。

        これで、これまでお世話になった方々にお礼が言えるようになったことが嬉し

        いです。

        怒涛のように被災地視察に来て、見て、話して、結果を残してD社長は昨日

        の午後帰福されました。1週間近くもいて南三陸に居座って、初めて見る

        東北の地だというのにどこに行くこともなく、終始何ができるか、それだけを

        模索し続けられているように見えました。来られた翌日、東北は美しい土地

        であることを見せたくて、栗駒山の須川温泉に案内しました。

        空港でお別れする前に「雇用を生まなければならない。あなた会社を作っ

        て」とびっくりするようなことをサラリと言われて、今日は頭が混乱しておりま

        す。会社を作るということは何をどうすることなのか、と回らぬ頭で考えて

        いたら来ました。メールが。

        「資金援助のためにNPOを立ち上げる準備を始めました」

        速いよ! D社長。ほんとに何でも速い。まだ1日しか経っていない。いや

        一日も経っていない。そして何時も真剣で本気。正直私はこういう方を好きで

        尊敬しますが、しかし社長の動きにはびっくりさせられています。

        午後から明日から必要な英字版新聞バッグを300個数えて、畑に行って

        明日の販売用の菊と千日紅を山ほど切って、花束を作って本日の作業

        は終了しました。

        

 

        

        

        

        

D社長被災地視察来訪4日目  その2

       話に来たのはAさん、Bさん Sさんの奥さん

       預けてきた荷物を入れる倉庫がない。

       洗濯物を干せる軒、雨樋がない。プレハブ住宅が直に地面に置いてあるので

       湿気がひどく、地震の振動が凄い。換気扇を24時間回し続けるように言われて

       いるが電気代が心配。聞いているだけで何ができるわけでもないのだけれど、

       聞くだけでもと、熱心に聞く。

       「津波で家が流されていくら貰えたの」私の唐突な聞きにくい質問に対して「50

       万円と100万円、合わせて150万円」と返ってきた。150万円から車を買い、生

       活必要な品々を揃えると、あとは残りを数えながらという暮らしぶりになるだろう

       ことは想像に難くない。仕事があればいいけど、家も店も会社もないのだもの。

       それにしてもこんな辺鄙な所に仮設住宅を建てるのだったら、日赤の義捐金

       は電気製品6点セットではなくて、必要な家庭には車代とかのほうがよかった

       のではないの。32インチのテレビは2Kの仮設住宅には大きすぎるし、自分の

       足しか移動手段のない場所で狭い仮設住宅に籠っていたら、「いざ、復興に

       向ってがんばろう!」と思っていた気持ちはだんだん萎えていくのではないか。

       「鳴子では楽しかったねえ。避難所を出る時には、さあ、これからがんばるぞ!

       と張り切ってここに来たのだけれど、ここで2年住めるかどうか自信がなくなっ

       てきた。不安で夜寝られない」鳴子でピカ一元気だったS奥さんの話を

       終始黙って聞くだけだったD社長が「戻りますか」と突然言った。そして、

       石巻に行くのを取りやめて3人と仮設住宅に行ってしまった。

       一人で石巻に行き、迷子に迷子を重ねてようやく帰路についたその帰り道、

       Sさんに電話をしてみると、D社長は一人暮らしのご老人の家まで訪ねて必要

       なものを送ります、と言ってくださったととても喜んでいた。人数、年齢を把握

       して、これから冬に向うために必要な品物もお手伝いしますとのこと。

       「日赤に寄付をしたのだけれどどこに行ったかわからない。だから個人のつて

       で何か出来ることはないか」と突然私に電話をしてきたD社長。あッという間に

       重役3人とカメラマンを寄越して、次には自分がやってきて、こちらで手配した

       鳴子の旅館を2日いただけでさっさとキャンセルし、レンタカーを運転して役所

       仮設住宅、同業者4人を訪問した後、今日もとっても気に入ったホテル観洋に

       宿泊するそうです。

       

       

            

      

       

    

D社長視察訪問4日目 その1

              福岡からD社長が来て4日目。

      午後3時に石巻の渡波にある寺院を訪ねる約束なので、朝の自分の仕事を

      終えた後、再度南三陸へ向かう。D社長に電話をすると、仮の公的機関が置かれ

      ているベイサイドアリーナの役所で、情報収集中だった。建設、電設という彼女(

      D社長は女性。私の学校の後輩)の会社の同業者で被災した人がいれば、訪ね

      て何か出来ることを提供したいというのが目的だった。

      これは後での話だが、「家も工事車も道具も流されたけど、仕事はあるって。

      道具をを送ってあげたらいいのかな」と考え込んでいた。

      D社長が同業被災者に会いに行っている間に、私は前に一緒に竹盆栽を作った

      鳴子温泉避難者のSさんが入居したK仮設住宅に行くことにする。志津川まで

      出ない集落だけれど、国道から支道に入り、また細い車一台しか通れない畑の

      脇の道を入って行く、こんなところに仮設住宅があるのか、と疑いたくなうような

      場所に仮設住宅はあった。K仮設住宅はカンカン照りの日差しの中で、カンカン

      に照らされていた。これまでみた中で最もさっぱりしているというか、表も裏も

      何もない、ただの箱型の倉庫が並んでいるような印象。洗濯物を干す場がない

      ようで玄関扉の上にハンガーを架けてたくさんの洗濯物が干されている。必然

      的に、お客であっても干されたシャツやパンツの下でドアを叩かざるを得ない。

       Sさんの奥さんは留守だった。帰ろうとした時Sさんから電話。奥さんが急いで

      そちらに向っているので少し待っててくれ、とのこと。しばし待つが奥さんは来な

      い。仕方がないので、、待ち合わせ先の志津川ホテル観洋に向う。

      ホテルに着いたところで奥さんから電話がかかってきた。ベイサイドアリーナ

      まで(自転車で40分くらいかかりそう)私にくれるためにワカメを買いに行ったそ

      うで、渡したいのでタクシーで持っていきます。と言う。断ってから20分後には

      お隣さんの車に乗せてもらって奥さんとあと二人のK仮設住宅の住民が

      やってきた。

      D社長と並んでK仮設住宅に於いての不安や不自由さなどを3人から聞く。

      

      

    

      

      

      

      

      

      

再び南三陸町へ

              三日間の東北被災地視察を終えられた福岡県の建設会社サン電工舎の重役

       方が帰福された二日後、今度は社長が来られた。1週間の予定であり、今日は

       その3日目。前回の視察で撮ったビデオ写真を見て、南三陸町に行きたいとの

       ことなので、ご案内した。A仮設住宅。小野寺さんが入居している。

       前回同様自治会長さんと、その奥様も同席してくださった。

       福岡という遠方からの支援で何ができるか、を話し合う。

       南三陸の仮設住宅は50数か所に分かれているようだけれど、建てた建設会

       社によって、仕様が全く違う。窓が掃出し引き戸だったり、上だけの窓だったり、

       扉も引き戸だったりドアだったりで、使い勝手が仮設ごとに違う。

       A仮設の場合は建物そのものが箱型で雨が降れば窓からも玄関口からも

       雨が降りこんでくるのでその対策、雨樋がないのでその対策など、この先

       連絡をとりあって会社の方で材料など支援していただけることになった。その他

       衣類、生活用品、なんでも困ったことがあったら連絡できるようになった。

       ほんとに有難いこと。

       ここでは男の人たちの仕事であるガレキ処理が9月下旬で終わる、その先の

       仕事をどうするか、など密度の濃い話し合いだった。

       明日は石巻渡波地区を訪問し、つい先日閉鎖になって避難所の役目を終えた

       お寺のお住職を訪問する。

       良いお話合いが進むことを願いつつ、明日は石巻に行きます。

       またご報告します。

      

       

       

    

       

       

 

閖上漁港、石巻

              家の前の電線の不調でブログが書けなくなっていたよっちゃん農場のドタバタ日

      記が今日から復活しました。これで一安心です。

      私もよっちゃん同様、福岡からお客様が見えたり、四万十ドラマの畦地氏やデザ

      イナーの迫田氏とお会いしたりいろいろ忙しい時間を過ごしましたが、今日は初

      めて行った閖上漁港と石巻のことを書きます。

      福岡から東北被災地を視察に来られた(株)サン電工舎の取締役3人とカメラマン

      をご案内して閖上漁港と石巻に行きました。仙台東部道路から見る県南被災地

      は塩水を被った木や草は茶色に枯れています。一面に茶色で所々水が溜まって

      います。朝市で有名だった閖上漁港はどこにあるのかわかりませんでした。「閖

      上漁港はどこですか」と尋ねて「その辺り」と教えてくれたガードマンが指差す辺り

      には10メートルもそれ以上もあるガレキの山々々。「復興」とか「復旧」とか言葉

      では言うけれど、元に戻るとは思えない光景です。振り向くと、震災前にはあった

      だろう住宅の全てが土台を残して全くなくなり、草が生えた広場の風景でした。

       石巻は全く違う、津波に貫通されて空洞になりぼろぼろになった住宅の密集

      地でした。これだけたくさんの家々にどれほどたくさんの方々が住まわれていた

      のか。人の姿はないに等しいけれど、どこに行かれたのだろう。そしてこれだけ

      の家を解体するとどんなにたくさんのガレキが出ることだろう。いつか新聞で

      見た、宮城のガレキ処理は100年かかる、と書かれた記事が心に蘇ります。

       日和山から海を見ると、バラバラになった防波堤が海に沈んでいました。

      1日2回家の中に入ってくる海水です。もし私の家がこの中にあって住める形

      を僅かでも残していたとしたら。壁や窓にブルーシートや板を何枚も張り、人

      が住まわれているらしい家もあります。

      何もかもすっかり失くなってしまった南三陸とは全く違う被災地の形でした。

      このブログは復興へ向かっての一歩一歩の記録として書き始めたのだけれど、

      今は復興という文字が心に沿わなくなってきています。もしかしたら復興でも

      復旧でも再生でもなく、創生、新しく作ることへの一歩一歩の記録なのかもしれ

      ない。そんな思いがしています。

      

      

歌津

      

       東関東大震災が起こるまで一度も行ったことがない南三陸町に、初めて行った

       のは一月ほど前だった。南三陸町で一番大きい街である志津川は、津波で流さ

       れて何もなかった。流れ残った鉄筋の建物だけが、ところどころで痛ましい姿で

       立っていた。屋上に車が乗ったままのところもある。信号も標識も目印にする建

       物もないのですぐに迷子になった。その日の目的である気仙沼に近い小野寺

       氏が住む仮設住宅に向かう途中、歌津を通った。自分が走っている道路左手

       の高い場所に駅舎が見える。当然列車は走っていない。駅の下は広場で簡易

       トイレが2個置かれている。駅を背にして海の方向を見ると、海に面して大きな

       橋梁がが何本も立ち、橋は流されたのか何もない。手前に青いウタチャン橋。

       暫く橋に居ついたアザラシの名前らしい。駅から海までは広い空間で、津波の

       あとの荒れた部分はたくさんあるが、草も生えて静かだった。一度も歌津へ

       行ったことのない私は、それが歌津の風景だと思った。

         そして2度目。今度は一人ではなかった。海山ネットメンバーと一緒だった。

       歌津の駅舎の写真を撮りに行った。線路はないそうである。海の手前の橋梁

       を「あれはなあに」と聞くと、「45号線」と意外な返事が返ってきた。ええっ、じゃ

       今私がいる道路は?あれが海沿い幹線道路45号線だとすると、駅から海まで

       の空間は? 動転している私にメンバーが言った。「駅の下には駅舎があって、

       駅舎で切符を買って階段を登って駅に行ったのよ。駅の前は七十七銀行とか

       お店とか向こうが見えないくらいのたくさんの建物が海まで続いている街だった

       よ」

       驚愕した。ほんとに驚いた。前の街を知らない人間にとっては今の歌津は、

       以前からある風景のように見える。この風景が元の街に戻ることが

       可能なことなのか、まったくわからない。

       今日歌津の人に会った。鳴子の温泉にいる頃より屈託のあるお顔に見えた。

       現実の生活に向き合うことはとても厳しいことだけれど、人と人との軋轢に

       心を痛めないでください。そんなところに捕らわれたら復興も復活もできなく

       なってしまいます、とお伝えしたい気持ちになった。

       

       

       

     

       

       

       

       おっかなびっくりで始めた菊、小菊2000本、輪菊1000本、が咲き始めまし

       た。お盆には咲かなくて、咲かない、咲かない、と言っていたら、いっせいに咲き

       始めて大慌てです。先日、南三陸まで菊のお師匠さんである小野寺氏に見せ

       に行ったら、予想に反して真面目な顔で「立派だ。よくできてる」と誉めていただ

       いてびっくり。冗談かと何度も聞き返したら、やっぱりよくできているのだそうで

       す。よかった!!

       一度見たら、他はどんなかと思われたのか、わざわざよっちゃん農場とうちの菊

       を遠路遥々見に来てくださいました。”秀”だそうです。いやあ、なんと言ったらい

       いのか。小野寺さんも奥様もお話する度に、津波で家が流れたおかげで会えて

       よかった、と仰るのだけれど、返す言葉もないので、やっぱり教えていただいた

       菊作りをこれからもしっかり続けて行きたいと思います。

       今日、メンバーである梅農場の専務と会ったら、「俺は仕事が忙しくて海山ネッ

       トの活動はちっともできないけれど、たくさんの避難者の方人たちに梅農場の

       仕事に来てもらって、これからの絆ができた。梅ができたらみんなに送るし、み

       んなも海のものが採れたら送ってくれる。これからもずーっとこの関係は変わら

       いと思うよ。タカちゃんはこの岩出山に住んでくれることになって、家もうちの

       近くに借りることができた。長男は涌谷町で就職できたし、下の息子は鳴子

       温泉に就職した。たかちゃんはよっちゃん農場で働く。大崎氏の人口が増えた。

       その意味ではおれは俺なりに充実した思いがあるよ」

       いい言葉だと思いました。彼は彼なりの海山ネット活動をしています。

       もうすぐ6か月になります。現状はほとんど何も変わっていないけど、小野寺さ

       んや専務のように「よかった!」と思えるようになれたらいいな、と思います。

       

福岡へ行ってきました

       ある企業の女性社長さんから東北支援のお話をいただき、詳細をうかがうべく

       久しぶりに故郷福岡へ行ってきました。大都会! 学校へ通った時の面影は

       どこにもなくたくさんのビル、たくさんのお店、たくさんの人、生まれ育った町なのに

       博多駅で迷ってしまう始末でした。

       福岡と東北は本当に遠く、なかなか交流したり情報が行きかう距離ではないの

       で現在の被災地の様子をお話しし、是非東北に来ていただくようにお願いしてき

       ました。早速いらしてくださるそうです。

       詳細はまたお知らせします。