「聞いでけさいん 新聞バッグのはなし
それはリサイクル、包装紙、持ち運びに便利
宮城の今を伝えます。
山に避難した「海の手」から生まれました。
わたしたちは
山間からヨノナカを変えていくメッセージを
小さな新聞紙の袋に詰めて届けたいのです。」
311の大震災の年の7月に、避難して鳴子温泉で暮らす海の人たちとともに新聞バッグを作って仕事にしようと
考え、動き始めました。でも事務的なことが全然解らなくて、その頃知り合いになって少しづつお話をする機会が
増えていた千葉啓子さんに「手伝ってもらえないか」と相談に行きました。その時啓子さんは被っていた毛糸の
帽子を脱いで、うっすら髪の毛が生え揃った頭を私に見せ、「私は病気なの。だから他の人を紹介するわ」と言い、
「なにか私たちのことを紹介する文を書いてほしい」という私の頼みを聞いて、たったひと晩で「聞いでけさいん
新聞バッグのはなし」という詩のような文章を書いてくれたのです。
今読み返すと凄いと思う。
この短い文章の中にこの4年間新聞バッグを作り続けてきた私たちの思いが全て入っているような気がするからです。
でもこの時はまだ何も始まってなくて、これから、という時でした。
私の妄想をちょっと聞いただけで、啓子さんはどれほどのことを感じ取ったのか。
啓子さんが57歳という若い命を散らして3年。今日は啓子さんを偲ぶ会に出席してきました。
場所は啓子さんが週2回開いていたレストラン「風のアトリエ」。今はご主人が引き継いでお店をなさっている
そうです。
今啓子さんがここにいたら60歳。還暦の歳です。
農の人、食の人、絵の人、音楽の人、文の人。そして旧家の奥様でもあり、男の子のお母さんでもある多才な
啓子さんを偲ぶ方たちが40数人も集まって、啓子さんの思い出を語る会でした。
還暦を祝う60本の薔薇の向こうの写真の中の啓子さん。この笑顔はいかにも啓子さんらしい。
文章まで書いてもらって亡くなるまでいっぱい話しをしたのに、私は啓子さんが何をする人なのか知りませんでした。
亡くなったずーっと後に新聞の人物の紹介コーナーのようなところで、啓子さんの職業を造形作家だと知って
驚きました。でも一番似合っていたのはやはり本職の中学校の美術の先生なのだと思います。
午後は岩出山の蕎麦屋さんで、久しぶりの海山会議。
6月7日に行われるアースデイ宮城についての打ち合わせなんですが、言葉、言葉、言葉を捜して呻吟の
3時間でした。
黒田さんが持ってきたロゴは素晴らしくて一発でOK。
そこに必要な言葉がほしい。寝たり起きたり転がったり喋ったり唸ったり、四つの頭を並べて言葉がつかめなーい!
でも最後に掴んだ、降りてきた。
啓子さんが空の上で「見つかった?」とほッとしているかもしれません。
後はもう黒田さんのお願いして、私は今日はここでおしまい。頭が疲れ果てました!