河北新報

河北新報という新聞を初めて見たのは、10年前首都圏から当地に越して来た時です。
転勤が多い暮らしをしてきたので、初めて住む土地ではそこの地方紙と、地方紙だけでは頼りない感じがして
読売とか朝日とか、全国共通のような新聞も合わせて読むようなことをしてきたのですが、宮城に来てからは
自分を囲む生活環境があまりにも違うので、河北新報と大崎タイムズという地方紙2紙を取りはじめました。

河北新報が読まれる範囲というのはよくわかりませんが、多分宮城県、岩手県あたりまでなのかなあ、
と思っているのですが、違うかしら。岩手あたりの情報は載ってるような気がするけど、福島の記事は
あるようなないような。毎日読む新聞だけど、こうして検証してみると、いかに自分がアヤフヤな読み方をして
いるのかよーく解かります。 大崎タイムズはもっと暮らしに密着した新聞です。

このふたつの新聞が、都会での暮らししか知らない私が、身寄りも知り合いもない初めての東北の暮らしに
馴染んで行く道標の役割をしてくれました。

余談ですが、引っ越してきた当日か翌日、購読を申し込んだ河北新報を、別荘地の入り口に設置した
新聞受けから間違って、上の住民IRさんのを持ってきて、当時の新聞配達のツルマキさんからうんと叱られ
ました。その時ツルマキさんは(ご近所の方です)たぶん85歳を過ぎられていて、背中に背負った袋に
新聞を入れて歩いて配達をなさっていました。「人のモノを盗るなんて悪いことはしてはいけない!」と
カンカンに怒ったツルマキさんに驚いて、一生懸命誤ったのですがなかなか許してもらえなかった。
冬になると、ツルマキさんは長靴に藁を巻き、竹の棒2本を杖にして背中に新聞背負って雪がしんしん        降る朝、1軒1軒歩いて新聞を配られていました。90歳近くまで続けられていたと思うけど、2年ほど前に
亡くなられて今は新聞配達の方が回ってこられます。懐かしい思い出です。

ここに住んで10年近くになると、もうこの地方の生活にも慣れて、道標は必要なくなり、新聞を変えようか
と思うことが多くなりました。新刊案内とか、イベント情報とか、もっと広い範囲のことを知りたくなったからです。

そして昨年の311。河北新報の震災の記事はどの新聞社よりも輝きました。輝くというとヘンだけど、
たぶん地元で起こったこの震災は、自分たちが報道しなければという威信をかけての渾身の取材であったで
あろうと思います。どれほどの悲しみを胸内に抑え込んでの取材であったろうかと想像するだけで、今も
私は泣きそうになります。同胞の悲しみ苦しみを見つつ、その報道をするのはつらいでしょうから。

イタリアに送るために新聞を選びました。何冊か買った報道写真もイタリアの方や在伊日本人の方たちに
見て頂くために選びましたが、やはり河北新報社の報道写真が最も素晴らしいと思えました。
なぜ素晴らしいのか。たぶんそれは河北新報社が地元紙で、ただ被災を報道するのではなく、被災者の
側に立っての目で見た取材や報道だからではないかと思うのです。
ミラノのKMさんからは「河北新報なんて貴重な新聞を送っていただいて」と感謝のメールがきました。
私たち海の手山の手ネットワークは新聞バッグを作っていますが、河北新報以外の新聞で作りたいと
思ったことは一度もありません。

大震災からほぼ1年が経って、先行きが見えるかというと、放射能のこともあって、漁業も農業も私たち
個人事業者も不安です。でも震災を受けて後がなくなり、前に向かって進むしか方法がなく、この状況
をどう突破するかとものすごく考えます。もうすぐ東北村プロジェクト、新宿高島屋に於いての第1回目の
催事『がんばろう!NIPPON 東北味めぐり』が始まりますが、その中に1軒の村民として参加させてもらう
ことになった海山ネットは、少ない人員、少ない予算でその催事をどうこなすか、頭の中が火の車になった
ように考えます。考えて話し合いを重ねてやり遂げることができれば、それは進化であり、大震災が起こった
ことで始まった成長でもあるのでしょう。

河北新報の報道の素晴らしさは、やはり大震災が起こったことによる進化ではないかと。。。
そんなことを考えます。これからもどんな本が出てくるのかと楽しみです。

今度の高島屋の催事では、南三陸新聞バッグインストラクター3人組、SAOちゃん、KEIさん、SINさん
が東京まで新聞バッグ作りの実演に参加します。新聞バッグがミラノへ行ったり、作った本人たちが東京の
有名デパートで新聞バッグ作りを教えたり、復興かどうかはわからないけど、とにかく嬉しいことでは
ありますので、どうぞ、東京の皆様、新聞バッグ作りにご参加ください。

 

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