写真

海山ネットのこれまでの出来事を撮った写真の編集をお願いしたKさんから、ラミネート処理された
60枚あまりの写真が送られてきました。ミラノでの展示用です。

自分が撮った写真のみではなくメンバー4人が関わった現場での写真を並べてみると、これは
思いがけなかったことですが、大震災以後のこの1年近く海、山のメンバーたちが、何をやって
きたのか、写真を追ってわかってへーぇ、という想い。

竹盆栽作り。南三陸のSさんともう一人とよっちゃんが、よっちゃんちの竹林から青竹を切り出してきて、洗い、
節で切って器を作り、そこに南三陸女性陣と私が私のうちの山野草を植え、田の畔の雪をどけて
採ってきた苔を張り付けて完成。青竹伐りは私も応援というか見物に行きました。できあがりはけっこう可愛くて
東京でたくさん買っていただきました。

そして花桃植樹。
梅農場のSさんのお父さんが、旅館で一日を過ごす避難者の身体と心を心配されて企画された
梅農場に花見山を作ろうという植樹イベント。旅館からたくさんの人が来てたくさんの花桃を
植えました。10年たって見ごろになったら復興花見をしようよね、という計画。

菊栽培計画。梅見の会で志津川で菊を栽培なさっていたO氏と出会ってから、急遽実現した菊栽培。
初めて出会ったのが菊苗を手に入れるには遅すぎる4月だったから、植えつけるまでは急展開でした。
苗がなくて、県農業普及センターの担当者に来てもらってみんなで隣町の菊農家まで芽刺しに
行きました。そうして手に入れた5000本の菊を、O氏のご指導を受けながら、育て上げて、
もうその頃には気仙沼近くの仮設住宅に入られたO氏のお宅まで届けに行き、「りっぱだ!」と
褒めていただいた時の嬉しかったこと!写真で見たら私が花束を抱えてOさん宅に入って行く
後ろ姿まで写っています。

梅農場のSさんは「俺は雇用をする」という言葉どおり、夏の梅の実の収穫から広大な枝豆畑の
作業まで、いつも避難者の方々と一緒に仕事をしてました。たくさん写真ありますよ。                  終わったら、みんなと親戚のような気持ちになったみたいでした。

そして新聞バッグ。これは最初の講習から販売から現在の南三陸新聞バッグ作り部隊の様子
まで写真がいっぱい。

今新たな展開を考えている布小物作りの写真もあります。

どの時間も全部素晴らしかったんだなあ、と写真を並べながらそう思えます.
竹も花桃も菊も新聞も布もひとつひとつが物語になっています。

で、だれか撮っとけばよかったのに、と今思う写真に気づきました。
まだ海山ネットという名前も決まっていなかった頃、「いいわかめがあるよ。津波の前のだから
すぐなくなるよ。今買っといたほうがいいよ」と南三陸のSさんに勧められて思わず買ったわかめ。

買ったほうがSさんにとってもいいんだろうなあ、と思って買ったわかめだったけど、売るのに
うんと苦心しました。結局は福岡の私の友達が片端から売ってくれる結果になったけど、
これがおいしくてもう一度で出会えたら食べたいわかめでした。食べた人からも「もうない?」と
聞かれるけれど、ないでしょう、もう。

それともうひとつ、初めて事務局Kが歌津に行った時、津波で家、仕事道具が全部流れて干椎茸だけ
残ったという方と出会い、「現金化されたいそうです。買います?」と言って買った干椎茸。
その量が10キロ。干椎茸10キロというのはたいした量です。

販売の度に、よっちゃん夫妻と事務局Kと私が借り事務所に袋、量り、シーラーにダンボール箱と
持ち寄って集まり、袋詰め作業をしたのですが、減らない減らない。
夢の中でも出て来てほしくない干椎茸10キロ袋だけれど、でもあの作業風景は写真に撮って
おけばよかったなあ、と今思います。

喪失する時の写真は記録としてでも見るのはつらいけど、再生の写真は苦しくても素晴らしい
時間として留められるのだとわかりました。そして私たちの活動がどれほどたくさんの人の手で
支えられてきたか。人と人が手を繋いで、手で物を作り出す草の根産業起こしの第一歩のよう
なものですが、その記録のためにもこれからマメに写真をとらなきゃね、と思いながらの
楽しい作業です。

 

 

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