ミラノへ始動

昨年末、「イタリアで日本からのメッセージとしてのイベントを考えてます」とミラノ在住のKさんから、
ご連絡を頂いてから、メンバー揃って、天から降って湧いたような、え、イタリア? 嘘?というような
非現実的感覚でぼう然としていたのですが、いよいよ時間切れになってきて、今日から始動!

気を引き締めて本気になってきました。
道の駅でお餅の仕事を終えてから、海山ネット事務所で元南三陸新報記者O氏と事務局Kと
3人で写真集めのミーティング。O氏は志津川での被災時に逃げた高台から(奥様も足が悪い
お母様も父様も無事。でも会社の同僚が亡くなられ、まだ見つからないご親族もいらっしゃいます)
撮った志津川湾を襲う津波の写真を3十数枚展示用に作り上げて所持されています。

その他にも梅農場の満開の梅の下で、初めて鳴子避難中の沿岸被災者の方々と(海の手さん)
私たち内陸被災者(山の手)が会って、みんなで笑顔で撮った記念すべき集合写真もお持ちです。

その写真を貸していただけないか、と正式にお願いしました。Oさんは元ヨーロッパに在住されていた
経験から「あー、イタリアはけっこう物が壊れやすいところで」と仰るところを、なんとかクリアして
いただいてOKが出ました。
後欲しいしいのは被災後の半年、1年をどう過ごしてきたか、という写真。

メンバー4人で連絡し合ってわかったのですが、誰もその後の生活の写真を撮ってない。
あのもの凄かった、ほんとに並びたくなかったガソリン行列(みんな雪の中前夜から並んでましたよねえ)、
オープン前のように物が何にもないスッカラカンのコンビニ。お金がなくても動かないATM。
毎日少ーし物が入って、行列を作りながら10人づつくらいづつ入れてもらったスーパーマーケット。
Oさんは「写真を撮りたくなくなってしまった」とおっしゃっていました。
私は米はあるけど電気が来なくて7日目の頃、お米をビンで搗こうかと思いましたよ。
食べ物に困ってSOSを出し、何人もの友人たちから食べ物を送ってもらいました。

新聞が来るようになったら、新聞見てはテレビを見ては掌を合わせ、涙ばかりこぼれて
止まりませんでした。

そんな日々だったからカメラなど思い出しもしなかった。
でも、あるんですよ。
志津川の菊作り名人小野寺氏から教わりながらを菊を作っている写真。初めてみんなで新聞バッグを
つくった日。夏の盛りの梅農場での梅の実の収穫。4畳半の2Kという仮設のあまりの狭さに驚いて
撮った写真。初めて見た時映画で見た日本人収容所みたいだ、と思った仮設住宅。仮設住宅
転居の日、旅館の大広間で父さ、ん母さん、おじいさん、おばあさん、みんなで撮った別れの写真。

それを役に立つか立たないかわからないけど展示できるようにします。
この1年を振り返った時、そしてずーっと時が経ってこの震災を思い返すとき、もしかすると復興の
歩みを表す大切な写真になるかもしれないから。

全部揃って出来上がったら2月初めにはイタリアに向けて発送します。
イタリアにもたくさんの日本人の方がいらっしゃると思うので、見ていただきたいなあと思います。

もうひとつ私にこれまでなかった望みができてきました。
国際線飛行機が苦手で、金輪際外国なんか行かないと思い決めていた私が、Kさんやご友人の
ブログなど読んでいるうちに、「行ってみたいかな?」と思い始めました。

だって、イタリアにミラノに、とてもお洒落な器で「ramen」それももやしラーメンがあるんですよ。
それにトリノテリヤキもアジノフライも。
興味をそそられるじゃないですか。

 

 

 

ミラノへ始動” への4件のコメント

    1. ゆーこちゃん、私飛行機ダメなんだ。見かけ倒しでしょう。
      お元気ですか。またお会いしましょうね。

  1. 写真が揃いはじめてきて良かったですね。震災後のこと、私も思い出しました。顔も洗えずみんなすすけた顔してましたっけ。

    1. 私はどうやって顔を洗ったのか忘れました。2か月経ってもなんてったてお風呂入るの怖かったですねえ。
      超高速カラスの行水でしたよ。全員着の身着のまま出入り口近くで寝ていたことを思い出します。
      おかしいね!!

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