もうすぐ新聞バッグコンクール

昨年の秋、初めて参加して、被災地と非被災地の生活感覚のあまりの違いにガックリとした新聞バッグコンクール。
その3回目の開催日が間近に迫ってきました。行われるのは新聞バッグが生まれた土地、高知県四万十川の
中流域にある町。

昨年はまだ新聞バッグの制作を始めて間もない頃で、「コンクールに参加しませんか」と問い合わせがあった時
には、「私たちは日本一の新聞バッグを作れるんだ」と張り切りました。

作り方というのはまだそれほど自信があるわけではないので、地震、津波という1000年に1度の災害が
起こっている土地での新聞で作るんだぞ、という、まあ、たぶんその話題性に軸足置いての気持ちの高揚だった
と思います。

 

まず新聞選びから始めました。

3月12日の震災翌日の新聞は1枚です。地元紙は被災して新聞を作れなくて、新潟まで送って印刷されたという
貴重な1枚の新聞紙。これは使うわけにはいかない。ほんとにほんとに悲しい記事ばかりで、新聞バッグ向きの
紙面なんて見つからない。それでもその中からちょっとでも希望の灯がみえるようなものをみんなで探して
作ったんだよねえ。

今鳴子で避難生活を送っている南相馬のあやさんは、その頃炎天下の梅農場の枝豆畑で、枝豆採りの車に
くっついて歩いて枝豆を採る仕事をしてました。
津波で流された南三陸新報社の記者であるOKさんが持っておられた新品の新聞紙を頂いて、そのダンボール箱を
持って、「あやさーん、新聞もらってきたよーッ」と枝豆畑を走ったことを思い出します。

でも残念ながら1等賞をもらうつもりで作った新聞バッグは、ようやっと主催者である四万十ドラマの畦地社長の
お気持ちで、あやさんの「前へ」という題の新聞バッグだけがなんとか入賞になりました。
副賞をもらって、みんなに持って帰れる、と嬉しかったです。

 

そんな思い出がある新聞バッグコンクールですが、さて今年は?

どれどれ、と鳴子のあやさんの住宅にコンクール用の新聞バッグを見に行ってきました。
写真で出したいけど、コンクール用なので出すわけにはゆきません。

でもとてもユニークだった!

彼女は中学1年生の娘のakariちゃんと暮らしています。鳴子の外れの温泉街が全部見える見晴らしがいいというか、変わったところに住んでますが、その家の広いことに驚きました。
あやさんは鳴子がよくて住んだわけではなくて、原発爆発当日一緒に避難したお友達が鳴子にきたからここに
住むことになったのだけれど、今はお友達は南相馬に戻り彼女たちは残ってます。

ここはもしかすると雪が多くて寒いだろうなあ、とは思うのですが、いったん出ると自立とみなされるので、移転
するわけにはいかんのだなあ。しかし広くて昔の家なので寒いです。彼女は元気よく立ち働き、私に夕食まで
御馳走してくれたのですが、私は炬燵に潜って動けない図。

 

よっちゃんから、コンクールにあやさんや、akariちゃん、よっちゃんちで仕事をしているのんちゃんを新聞バッグ
コンクールに連れて行く旨のメールがきました。

3人とも四万十新聞バッグの作り方の講習を受け認定されたインストラクターです。
「あやさん,のんちゃん、共に故郷を失った被災者として目の前に『新聞バッグを作る仕事があるんだ』と伝えたい」
それを現地から少しづつ興していく魂を伝えてほしい、
とありました。私も3人に四万十に行って日本一の清流といわれる四万十川の保全に貢献している新聞バッグ
のルーツを感じてきてほしいと思います。

南相馬に暮らしていた人と南三陸の海辺で育った人間が、四万十川の中流域まで行って新聞バッグのルーツ
を辿るなんて、面白くてすごい話だなあ、と私は一人で喜んでます。

 

 

 

 

 

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