春遠からじ

ー冬来たリなば春遠からじーという詩の一節があるけれど、お正月を過ぎてからあたたかーーい!

12月、時ならぬ大雪に驚き警戒しましたが、1月に入ってから一転。月半ばからずーっと暖かくて

積もっていた雪がきれいに消えてしまいました。1月に雪が消えちゃうなんて、あまりないことです。

白鳥の動きが活発になりました。

毎朝行く道の駅の裏手の広い駐車場の向こう側に川が流れてるんだと思うのですが(行ったことない

ので見たことがない)、白鳥の声が凄い!コウコウコウコウ、コウコウコウコウ。鳴き声が途切れず、

家族だか親戚同士だかの白鳥軍団が低い空を行ったり来たりしています。

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タイミングよく写真を撮ろうと思うんだけれど、まず間に合わない。

一度だけですが、江合川の土手を犬と散歩している時に、北帰行だかなんだかわからないのですが、

白鳥の大編隊が鳴子方向の空から古川方向へ飛ぶのを見たことがあります。

片翼100羽くらいのv字型の大編隊がはるか遠くの空から一隊、一隊現われては頭上を通り過ぎ、

反対側の空に消えていく。一糸乱れずというわけには行かなくて、たぶん子供なんでしょうが2、3羽遅れな

がら付いて行くのを見ていると、見失うんじゃないかとハラハラします。

 

その時以来、あれほどの大編隊は見たことありません。

10年以上の住んで見たのはたった1度だけ。よっぽど特殊な場面に遭遇したのかと思っていたら、私も見

た。あれは凄い!、感動する!と鳴子住まいのあやさんが言い出したのでの、やっぱり10年に1度なんだか

1年に1度なんだか分からないけれど、白鳥にはそういう行動があるのだと思います。

 

その日が解ったら、SLが走る日に人が集まるように、白鳥の大編隊飛行を見たい人が集まると思うんですけどねえ。

どうして鳥は、これほどの苦労をしながら長い長い距離を北から南へ、南から北へと渡るのだろう、と

理屈ぬきで思い、力の限り飛ぶ姿に感動します。

 

昨日は北海道からみえた倉本聰先生の演劇公演スタッフS氏とお会いしました。

昨秋富良野でお目にかかったときに話に出た、倉本聰先生の演劇を大崎で公演できないか、という計画が

すこしづつ動き出しています。

そして今日はお昼から道の駅出荷組合の監査。そして理事会。夕方まで缶詰でした。

年度替わりが迫って、これからは行事続き。

新聞バッグのほうも、チョコレートやお手紙を入れるバレンタイン用バッグも出来上がりました。

直売所、ロイズチョコ販売コーナーにありますので、道の駅にお越しの際には是非ごらんになってください。

 

 

 

 

 

 

 

仕事再開

やっとインフルエンザから脱却してお餅屋家業を再開しました。

インフルエンザ、侮るなかれ。残念ながら高齢者では亡くなる方も出てきますが、一昨日よりも昨日、昨日

よりも今日と、薄紙を剥がすように1日1日動けるようになってくると、「治って有難い」と思うと同時に、何か

起こると回復に時間がかかるようになった自分の年齢を実感します。

海山メンバーにはご迷惑をかけましたが、この1週間あまりの隔離時間は、私には貴重な「普段やれないで

いることをやる時間」になりました。

 

まず買っておいたけれどもじっくり読む時間がなかった、スマホとi-Padとデジタルカメラのハウツー本を並べ

てメモ帳まで用意して最初っから読んでいきましたが、やっぱりわからんわ。まず言葉がわからない。

IT用語というのか、出てくる言葉のひとつひとつが私の長い人生の中にはなかった言語なので、意味の

概要さえ掴めずひっかかってばかり。アカウントって何? アンドロイド?って何さ。みたいなことで、時間が

かかる割には何ほども進まない。それでも「理解する」というのは、年をとっても嬉しいことです。

まあー、認知症の予防くらいにはなってるかも・・・!

 

言葉すらろくすっぽ解らないのに、それでも私の友達、みんな70歳を越してますが、メールを送ってくるし、

スマホを使うし、原稿をデータで送ってきたりするのだから凄いもんんだと思います。

でもね、話が込み入ってくると、メールではまどろっこしくなって、便箋に手紙を書いて送ってよこしてくるの

がおかしい。私も同じだけど・・・。挨拶とかお礼とか気持ちを伝えるとかをメールで、というのはやりづらいです。

好きな便箋と封筒を用意して、万年筆のインクを確かめて、姿勢を正して文章を書いて、買っておいた切手

を貼ってポストに入れると、ほっとします。

 

寒さでプラスティックの入れ物が劣化して壊れてしまった味噌を入れ替えました。去年の2月初めに仕込ん

だお味噌です。夫が病気の間中断していた味噌作りを再開。久しぶりの手前味噌です。

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味噌つくりは、ここに越してきた年の冬、集落のお母さんたちで結成された味噌作りのグループ「まめっこ

くらぶに入れてもらって、作り始めました。みんなが1斗作るのでびっくり。初めの頃は私も

1斗作っていたけれど今は必要ないので半斗(7・5キロ)だけ。自家製味噌は大変美味しいです。

 

今日は仙台のお客様から、結婚式の引き出物用の新聞バッグの打診がありました。

こういうお仕事はとても嬉しく気持ちが前向きになります。新聞を選ぶのも新聞バッグをデザインするのも

楽しく、祝福の気持ちで手の仕事ができます。ですが、お式までの時間が短すぎるのー。

今黒田さんが試作中です。なんとかなれば、できればいいんですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフルエンザ最終段階

1月も終盤に入りました。

特に今週は「新聞バッグ1500枚の緑会さんへの発送」、岩出山の南町商店街での「地元お母さんたち新聞

バッグワークショップ」、そして今日は隣町「栗原市築館での準地元新聞バッグワークショップ」開催と集中

的に新聞バッグづいています。

 

こんなことはあんまりない。海山メンバーは全員生業もちなので、仕事に差し支えないように連日の新聞

バッグワークは避けます。けれども今回はたまたま繋がってしまったがんばりどころ。

本来参加するはずだった私が行けなくなって、よっちゃん、奥さんの道代さん、は3日間の連日出動。

黒田さんも一昨日、今日と仕事を振り替えで休んでくれて、今日の講師を務めています。

昨日の地元ワークショップでは、今力をつけつつある若者インストラクターMちゃんが、お母さんたちに

新聞バッグを教えてくれました。

 

今回家にいて「凄いなあ」と実感したのは、よっちゃん夫妻の急展開する現場への対応の早さ、的確さ、

正確さ。

そして脇を努める黒田さんの真面目できめ細かいサポート力。

普段、たくさんいる新聞バッグの折り手さんに日々対応しているのは黒田さんと私です。

よっちゃん農場代表としての仕事が多忙であるよっちゃんは 折り手さんの名前や折っているバッグの種

類などにはには詳しくなく、対外的な大事な場面で指導力を発揮してくれています。お互い、自分がやれる

ところをやっているだけなのですが、にも関わらず、私が「ギブアップ」を表明したその日から、よっちゃん、

みっちゃんの動きの凄いこと! 早いこと!確かなこと!

まるでなんでも知ってるみたい!

そして何より素晴らしい、と思うのは常に現場を「楽しく盛り上げよう」とする彼らの姿勢です。

 

今日も栗原で、よっちゃんは大きな声で面白おかしく海山のお話を語り集まった20名の受講生の方に

楽しんで頂いていると思います。

昨日、今日、地元で蒔いた新聞バッグのタネがいつか少しづつ育って大きくなって、地元の小さな商店街

で1日だけの新聞バッグの日(ワンデイ新聞バッグ」などができるようになったら嬉しいことです。四万十の

みなさんにも喜んでもらえると思います。

 

 

さて、私のインフルエンザも最終段階。

よくなっているのかなっていないのかよくわかりませんがとりあえず隔離日数はズルせずに完了です。

まず温泉に走って行って、心行くまで温泉に浸かってさっぱりとしました。

都会暮らしの時は温泉に入る癖がなく、外出先でお湯に入るのが面倒なような気がしてました。

でも今は温泉はほんとうに有難い。

つらい時、悲しい時、心が痛む時、温泉にきてお湯に浸かっていると身体も心も癒されます。

 

両親の介護のとき、亡くなったとき、夫が病気の時、亡くなったとき、犬が死んだときも、いつも温泉に来ました。

車のシートから無理やりに身を引き剥がすようにお湯に入ると、悲しみとともに心が穏やかになりました。

今夜も温泉に合掌をして外に出ます。

なんと1月というのに音をたてて雨が降っています。雪が溶けてしまいました。

暖かくて有難いけど、なだれが心配になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフルエンザの日々

はあーー、 治りませんわーー!

熱が下がって「おー、やっと」と喜んでいたらまた今日になってくしゃみ連発、鼻水。なんで?

今日は昨年から新聞バッグ4500枚もご注文頂いた東京三菱UFJの企業グループ㈱みどり会さんへの

最後の発送日です。

今日送る新聞バッグ1500枚は、2月1日に東京のサントリーホールで開催される東京グリーン交響楽団

大3回定期演奏会でお客様に配られることになっています。

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前回新宿文化会館で開催された演奏会には招待して頂き、素晴らしい演奏を聴かせて頂いたのでしたが、

今年もサントリーホールにお招きいただいています。

長期に亘ってお世話になり、最後の1500枚は感謝の気持ちをこめて確実にと早くから準備はしていたので

すが、まさかのまさか、発送当日にインフルエンザになろうとは!

おかげでよっちゃん夫妻、黒田さんには大変負担をかけることになってしまいました。

海山仕事はちょっとたてこんでいて、明日は岩出山でワークショップ、明後日は隣町栗原市の築館でワーク

ショップを行います。

みなさーん、ご迷惑かけてすみません。

 

インフルエンザに罹って以来隣家の娘一家とは会わないようにしていますが、

6歳の孫曰く、「バーチャンは年寄りだからインフルエンザにかかった」のだそうで、

「バーチャンのお口から出たインフルエンザが僕のお耳に入る」と言って電話にも一切出なくなっちゃいました。

普段はどんな電話も一人で出てくるくせに。

あと何日か、演奏会までには体力回復しておきたいものです。

よっちゃん、みっちゃん、黒田さん、今日は大変お疲れさまでした。特によっちゃんは午後からは道の駅の

理事会。明日はワークショップと続くので、疲労に気をつけてほしいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

インフルエンザ

以前に1度だけインフルエンザにかかったことがあります。

熱が高くていつまでも気持ちが悪くて実にしんどかった。その時は娘もインフルエンザに罹っていて、

娘が病院でもらったタミフルというお薬を私は違う病院だったのでもらってなかった。

娘のほうが少し楽のように見えたので、そのタミフルが欲しくて仕方なかったことを覚えています。

その時の発熱の仕方は突然でした。朝、お餅を出荷した帰り道の車の中で「あら?私熱がある?」

くらいだったのが帰ったらぐーんと上がって9度。5日間の隔離というけど、2週間くらい具合が悪かったです。

 

先週の金曜日、雪煙吹きすさぶ寒ーい夜、新聞バッグ1万枚の注文を頂いたロイズチョコレートのOさんと

Kさんと食事のひと時を持ちました。蟹やいくらや函館の話で盛り上がり、実に楽しかった。

その帰りは無事だったのですが、帰ってまた突如として発熱しました。病院にも行って、インフルエンザの

お墨付きをもらい、タミフルではないなにか直接口に吸い込むお薬を入れて頂いたので、大丈夫でしょう。

これから5日、孫の出入りもなく(孫の幼稚園もインフル休園中〉一人隔離されます。

 

みなさま、インフルエンザにお気をつけください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「花屋は3年先をよめ!」

いつ頃からかは分からないけれど、花を育てるのが好きで、3年毎くらいにやってくる転勤に伴う転居にも

めげず、花を育てる場所があればなんだかんだと花を育ててました。パンジーとかチューリップなどの

花壇に植える花には興味がなくて、ハーブだとか宿根草だとか木の花だとかが好きでした。

何時の日か、その時がきたら都会暮らしをやめて、広ーい田舎に引っ越して小さなハーブ園をやりたい

なんぞと夢を見て、千葉に越した時にその時のためにと畠を借りて花や野菜作りの練習をしました。

 

そんなある日のこと、千葉の市場でHさんという年配の女性と知り合いました。Hさんは市場の場外にある花

の中卸(なかおろし)さん兼、切花、鉢花、苗もの、フラワーアレンジメント、なんでも扱う花屋さんでした。

花に関連することならなんでもやるし何でも知っているけれど、花以外の森羅万象には興味がない。結婚し

て奥さんなんだけど、寝泊りするのはお店。夜中に市場に行くのに都合がいいのだそうです。化粧っけもな

く、年中ゴム草履を履き、いつも腰に重い花鋏をぶらさげた姿で、千葉大園芸学部の学生や都内の大きい

花屋の店員さんに指導をしたりしてました。私はそこで将来園芸家を目指す学生たちや花を作る人たちと

知り合いました。

 

そのHさんから「作った花を見せにおいで」、と言われて持って行ったことから、できのよい花を買い取って

もらったり、Hさんがアレンジに必要な花を私が栽培する、というような関わりになっていきました。つまりは

私はHさんに花のお師匠さんになってもらったのです。

 

Hさんから何時も繰り返し聞かされていた言葉があります。

ひとつは「生産する人の花を安く買うな。1円でも高く買い取りなさい」

安く買い叩いたら良い花はできない。

もうひとつ、耳にこびりついたように今も忘れないのですが

「花屋は3年先を読め!」

花屋は今流行っている花を見ていてはいけない。常にこの先にはどんな花が流通するか3年先を読んでい

なければならない。

 

その頃私はまだ花屋ではなかったけれど、花の世話をしながらブツブツと呟くように話すHさんの言葉は

記憶に残りました。

 

クリスマスローズという花があります。今でも人気が根強い素敵な花ですが、私はここに住んで13年です

が、その3年前くらいからHさんに言われてクリスマスローズを作ってました。それほどの長い間人気が続く

とはクリスマスローズは凄い花だと思います。が、さまざまな種類があるクリスマスローズをさまざまな形

で作ってみて、まあいろいろ苦心したので今は作りません。

 

ここに越してHさんと別れて13年。市場の花屋は辞められたと聞いたので、今はどこで何をなさっている

だろうと懐かしく思い出すのですが、近頃とみに甦ってくるのは「花屋は3年先をよめ!」という言葉。

3年先をよまなければならないのは、花屋だけではないと思うのですが、3年先ってどうなってるんだろう。

良いことは全然思い浮かばない。人間の絶対数が足りないということが、私たちの生活自体を変えて

いくのだろうなあ、と漠然と思います。

 

今振り返るとHさんは私にとって「モノを見る眼」を変えてくれた掛け替えの無いお師匠さんでした。花の

育て方だけではなく、花を巡る世の中の環境、人の環境などなど、ブツブツ呟くように話すHさんの言葉

の中からたくさんのことを学ばせてもらいました。

オーストラリアでしか育たない花を、作れと云われて行ったこともないオーストラリアの自然環境を模索しな

がら一年に一度しか咲かない花を3回作ろうとしたこともあります。Hさんを喜ばせたかったのですが、

完全敗退。花はそんなに都合よく人の言うことなんか聞きません。

 

「花屋は3年先をよめ!」

私の花の師匠はたいした言葉を私に贈ってくれたものだと思います。感謝です。

私は今花は作っていないけれど、一生懸命に3年先をよもうとしています。そしてまたいつか花を育てようと

思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「木の花」さんのこと。

大震災から間もない頃、帰郷した福岡の繁華街でお洒落な雰囲気の和装雑貨のお店を見つけて

入ったことがあります。お店の名前は「木の花」さん。新潟から取り寄せた木綿の反物やバッグや

半巾帯など和装でも普段使いにもいいような布の小物のお店です。ひときわ目を引かれてほしいな、

と思ったのがデニム色の木綿地で作った丈長の作務衣。作りもしっかりしてますが、お値段もしっかり

してました。

何を思ったのか、その時私の口から飛び出したのは、「素敵な作務衣ですねえ。私、宮城から来たの

ですけど、この作務衣を南三陸の津波で流された縫製工場の方に縫わせて頂けないですかねえ」

「木の花」のオーナー、福田さんはあまりにも唐突な私の申し出に驚かれただろうと思うのですが、全く

動ずることなく「いいですよ」と。

 

後で知ったのですが、「木の花」さんは本屋さんで売っている和装の雑誌にも立派な写真が掲載され

ているお名前が知られた木綿屋さんでした。知り合いでもなんでもないのに、飛び込みで入って、

南三陸にお仕事くれませんか、と言う私も私だけど、即座に「いいですよ」と応えられる福田さんの

福岡的というか(私も同じようなものですが)、その気風と度量の深さに私は驚き、深く感謝したものです。

 

津波で仕事場を流された元縫製工場の従業員の方々とは避難先の鳴子温泉の旅館で知り合いました。

旅館の女将さんから提供された布で手縫いで作ったというエプロンの出来栄えの素晴らしさに驚いて

何かお仕事あったら紹介したいな、と思っていたのが、まさかのまさか。こんなところで縫う仕事と

結びつくなんて想像もしないことでしたが、そのお仕事は大震災から4年近くたった今でも続いています。

「良い方を紹介して頂いてありがとうございました」

木の花さんからはそう言って頂いていますが、乱暴者の私としては冷や汗もので、「あー、良いご縁で

ほんとによかった」と胸を撫で下ろします。

 

その木の花さんが、福岡のお店を閉めて、東京の神楽坂にお店を構えられたというお頼りを頂き

ました。東京に出てからデパートへの出店や通販も盛んになって、作務衣以外の縫い物のお仕事も

増えた。もし縫う方がおられるなら、というお申し出でした。

本当に有難い。南三陸の縫製の方が良いお仕事をして繋いでくれたご縁です。

石巻に電話をして伝えたら、渡波の方で「縫いたい」という方が出てきました。

 

福岡から南三陸に行って東京から石巻へ。布を縫うお仕事がこんなふうに手から手へ繋がっていくのは

うれしいことです。木の花さんの品物は、生活感から離れていない素敵さを感じます。

今度東京で木の花さんを訪ねたら、「お仕事ください」ではなくて、私のための作務衣を注文しようと思います。

 

「木の花」さん。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

玉子屋妄想雑談

今日は1月9日。

ああ、お正月がくるー、とあれほど焦っていたのが、もうお正月はとっくに過ぎて明日は10日。

1月というのは12月と違って、寒さは厳しいんだけどなんとなく嬉しい。やっぱ、1日1日春に近づいて

いくという感覚が嬉しいのだと思います。

冬至を過ぎて日が長くなってきました。

都会で暮らしていた時は、春分の日と秋分の日は祭日で仕事が休み、くらいの関心しかなかったのに

ここでは秋分の日や春分の日よりも、冬至や夏至のほうがうんと気になります。

夏、夏至を過ぎるとがっかりします。まだ日中は温度が高くて外仕事はたくさんあるのに、1日1日

目に見えるスピードで日が短くなる。7時までできていた外仕事が5時には暗くなってできなくなり、

最短4時で仕事上がりなんてことになります。電気をつければいいようなものだけど、花栽培の仕事では、

電燈の下で見る花の色はほんとの色ではありません。

そして冬至を過ぎるとまた目に見えるスピードで日が長くなっていきます。今は夕方5時は明るい。うれしい。

車で家路につく時、よく「わあ、明るくなったなあ」と思います。夜明けも同じです。

 

今朝、鳴子温泉の喫茶「玉子屋」のマスターから電話。本をくれるというので、喜び勇んで行きました。

「子供の村福岡」で始めて発刊された「かぞく」という本の創刊号。玉子屋のマスターたけし氏は12月

19日にようやく開村した子供の村東北の理事さんです。震災遺児の子供たちも利用できるように

作られた子供の村。開村後の維持がうんと大変なのだそうです。ご協力を・・・。

この先鳴子を含めて、いかにして観光客を集め町を活性化させ得るか、という雑談。居合わせたお客さんも

入って、年齢性別居住地職業、関係ないこういう妄想雑談は、実に楽しいです。初対面でも不思議にみんな

馴染んでしまう。私はここで何人もの方とお知り合いになりましたが、農業商業学者先生クリエイター、いろ

いろな職業の方と妄想雑談を繰り広げていると、希望が湧いてきます。

 

明日は倉本聰先生のお芝居「ノクターン」の富良野での初演日。べつに私たち海山がなんの役割をした

わけではなく、明日の初演日に使われる新聞バッグを作っただけなんですが、それでもとても気になります。

どんなふうに新聞バッグを使って頂けるのだろう。誰か写真に撮って送ってくださらないかなあ~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年初トーキングそして昔の仲間

今日は1日吹雪。 強風で地吹雪。

夕方のニュースで見た今日の北海道の吹雪のひどさから較べると軽いようなもんですが、それでもちょっと

走っても車は雪だるま。視界は吹雪いて昼間もライト点灯。これが2日も続くとうんざりですが、夜はお月様

が煌々と輝いていました。 晴れるのかなあ、怪しいなあ。

 

お昼、岩出山にできた素敵な喫茶店「風庵」でよっちゃんと今年の展開についてのトーキング。

お互い、なんともはやいよいよ追い詰められて本格的転換期に来ているという年初の感想は一緒。

 

二人とも道の駅出荷組合の役員に就いて10年余。道の駅と直売所のいろんな場面を見てきました。

今はお天気が悪かったり雪が例年より早く来て多かったりの要因で来客数は少ないけれど、暖かくなれば

また客数も増えて例年どおりに売り上げもよくなるでしょう。

などとのんきなことは云えない状況。この10年と同じことをやってちゃダメなんだよねえ。やれること、

やらなければならないことはいっぱいある。 気持ちに身体がついてかない私のような年寄りが考え

たって歯噛みするだけなんだけど、よっちゃんと話していると、この町でこれから農業で踏ん張って生きて

いこうとする若い人たちが背負わざるを得ない荷の重さにため息が出る思いです。

集落の存在が危ぶまれるほどの急激な人口の減少、米作りを含むこれからの農業、町の大半を占める

住民の高年齢化。どれを考えても取り組みの糸口さえ見つけられない難問山積。よっちゃん(私もです

が)が理想とする物々交換図も人間がいなくては成り立たない。こうなるだろうことは予想されながら

経済経済と煽られつつここまで来て、数少ない今の子供たちが大きくなった2、30年後に残すツケは

どれだけのものかと想像するのも恐ろしい。

 

そうだ、帰り際、よっちゃんの切断を免れた親指を見ました。 大きいの! びっくりした。腫れは当分

退かないんだそうです。でも今はリハビリが始まったばかり。何ヶ月か後には少し動かせるようになるでしょう。

 

海山の活動もお正月休みが終わって始動です。まずは間近に新聞バッグ講習。この度お借りする農協事務

所へ新聞紙の引越。中旬頃までにはロイズ新聞バッグをある程度形作り、次いで緑会さんへの1500枚の

バッグの納品。 そしてワークショップがふたつ。月末に緑会さんにご招待いただいているサントリーホール

の演奏会に出席させて頂きます。  ワーオ。整理してみるとけっこう盛り沢山ではないですか。

そして海山は今年もまた富良野へみんなで行きます。「北の国から」を再体験します。お金貯めようー。

 

夜遅く、福岡の友だちから電話がかかってきました。

私の中学校からの親しい友人なのに、電話の相手は男性の声。それも酔ってる!

わかった。昔のテニスの仲間が、全員70歳を過ぎた仲間が合コンやってるんですって。

なんと楽しい!

その中の一人が

「あなたの引越しの手伝いに行ったよ。(私何にも覚えていない)そしたらあなたがね、ファイル、ファイル

というのよ。あの時代ファイルやら横文字言われてもわからんやったよ」

吹き出しました。

海山で英字新聞で新聞バッグを作ろうと考え始めた時、私がまず思いついたのは「スターズ&ストライプ」

あれはどこに頼んだらいいんだろう。調べる!と張り切る私に「そんな新聞聞いたことない」と外国通の

オトーサンが困惑してました。

「スターズアンドストライプ」というのはたぶん全世界アメリカ軍の基地があるところに配布されるアメリカ軍

向けの新聞なのです。私が知ってる英字新聞は最も身近なそれしかないので、私は何十年も全然気づい

ていなかった。いくら日本人魂を頑固に保とうと努めていても、やっぱりアメリカナイズというか基地ナイズさ

れていたんだね、と今解ります。

この次福岡に行ったら、女子筑紫女学園テニス部、男子西南学院テニス部の合コンをする約束をしました。

たった6人だけれど。またひとつ楽しみができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

海外旅行

小さい頃身体が悪くて、小6で手術を受けるまで近所の子供らと一緒に遊ぶことができませんでした。

で、本が好きでいっぱい本を読んでました。外国の物語を読んで外国に憧れ、大きくなったら外国

に住みたいと思っていました。中学1年生で初めて英語と出会い、英語を上手になりたくて、基地が

ふたつもある町に住んでいるので、駐留しているアメリカ軍の家族の家に大人になるまで通って

ました。

 

日本の会社でも働いたけど一年で辞めて、後は基地で働き、大きい病気をした後はアメリカ資本の

会社で働きました。ほとんど日本の社会に関係のない暮らしぶりだったので、好きな人ができてアメリカ

にお嫁に行く機会は2度ありました。今はテレビなどで戦争花嫁などというけど、私の周囲でも兵隊と

結婚してアメリカに渡った同僚はいくらもいます。もう70にもなって、みんなアメリカで幸せかな?と時々

思い出します。私はなんだかねえ、そういうところにいると、日本人の塊みたいになっちゃって、

考え過ぎてなかなか前に進めない。だから今も日本にいるんだなあ。

 

まあそういう経験をして、アメリカ資本の会社で働いている日本人のオトーサンと結婚して普通に

暮らしてきたわけですが、海外勤務には縁がありませんでした。オトーサンは一人で海外の

あっちこっちに出張ばかりしてました。

そして、ある時会社のコンベンションでサイパンに行くことになりました。小さい子供3人の育児中で

行く気になれないところをオトーサンの母親から「みんなが行くんだからあんたも行ってくれ」と拝み

倒されてしぶしぶ、社員+妻という旅行に送り出されました。

 

初めての海外旅行。初めての海外便。

その飛行機の苦しかったこと!乾燥とあの狭さ、動けない苦しさ。行きはなんとかがまんし通して

到着したんですが、帰りは悪夢。隣の席で機嫌よくしゃべる男性社員の顔まで今も記憶が離れない

トラウマです。以来全然飛行機に乗れなくなっちゃった。

翌年のコンベンションはモナコとか。モナコなんか行ったら飛行機の中で死んじゃう、と必死で

抵抗したことを今も覚えています。

 

なんのことはない。あれほど外国に憧れていつか私は外国に住むんだと思っていた人間が飛行機に

乗れないなんてバカバカしくてしゃれにもならない。ニュージーランドにトレッキングに行きたいとか大陸横

断鉄道に乗ってみたいとか思うくらいは思うのですが、船でとか上海経由で陸路でとか思っているうちに

年をとって、自分は海外には縁がない人間で、行かないまま終わるんだ、とほぼ思い決めていました。

 

私の従妹は毎年年2回、年をとったおば夫婦の面倒を見るためにロスから日本に帰ってきます。

1、2ヶ月いてアメリカの家族のところに戻ったかと思うと、また延々12時間も飛行機に乗って日本に

やってくるのですが、私はなんでそんなことができるのかと信じられない思いです。

私の親しい友人も大分から成田と飛行機を乗り次いでカナダまで娘さんの赤ちゃんのお世話に行って

ました。ほんとにえらい。私も娘の子供の面倒くらいは見てあげたいけど、絶対に飛行機には乗れない。

必死の思いで出かけて行ったら一年くらいは戻ってきたくない。重症なんです。

 

ところが、なんと2月に私は地中海に浮かぶ島マルタ島に娘家族と行く決心をしました。以前その話があっ

た時途中で3回くらい降りるなら行ってもいいという私の案は却下され、訊けば最初に13時間乗って、乗

り換えで6、7時間待って、乗り換えて6時間乗るなどという身の毛のよだつ飛行時間。

でも行きます。睡眠薬飲んで行きます。

これで行けたら、いつか友だちとウイーンやドイツに行ってお菓子を食べて音楽聴いて散歩してという

夢に一歩でも近づけるかもしれないので、諦めないで挑戦します。

ほっぽらかしになっていたパスポートを新しくしてきます。

誘われても絶対動かなかった私が、海外旅行をするなんて、オトーサンがびっくりして喜んでいるだろう

なあ~。