始まりはチョコだった。

古川からの帰り道、緑の田んぼがあまりにもきれいだったものだから、「私はなんと美しい町に住んでいるんだろう」と感動してパチリ。でもこれを近所の人に言ったら「フツー」と言われるんだろうなあ。

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きのうは海山始めた時の仲間3人でご飯を食べながら話をしました。

大震災の時から3年ちょっと経って、もう忘れてしまっていたけど、海山新聞バッグを始めるきっかけは、チョコだったんだよー。

と言ったら、「えーー? あーーあ、そうだったねえ、そうだった、そうだった」と二人。
一人はよっちゃん、もう一人は最初に沿岸部の人たちと梅の花見をした梅農場の3代目。開拓農家の3代目だから作っている枝豆の名前も「3代目」です。

12年ほど前にこの町に道の駅がオープンしましたが、その前年に私は千葉からこの町に移住し、時を同じくしてよっちゃんは東京からUターン。道の駅オープン時の最初の会合の時に3人は顔を合わせ、以後時はずれますが、3人とも出荷組合の役員を務めることになりました。

大震災後はガソリンない水ない電気ないの毎日で、家族全員すすけた顔をして余震に怯えながら、自分の家周りのことしか解らない日々。8日も過ぎてやっと電気が回復して、それからしばらく経ってからのこと。

うちの道の駅には北海道のロイズチョコレートのお店があります。そのロイズチョコレートが北海道から支援品として大量のチョコレートを運んできてくれました。そのチョコレートを沿岸部の避難所まで届けるためによっちゃんたち男性役員一行は初めて沿岸の津波被災地に入りました。

沿岸部はどんな状況なのか。電気がなくて大震災時の様子を断片的にしか知らない私は、固唾をのむような気持ちでよっちゃんたちの帰りを待ちました。でも帰ってきても全く連絡なし。電話をしても出ない。3日間もの無言。

それから暫くして「何かをしよう。でも自分たちが行って現場の手伝いをするということではないと思う」と
いろいろいろいろ相談しました。そうこうするうちに寒さも和らぎ、4月半ばになって梅の蕾が膨らみ始め
その頃から「梅の花見に来てもらいたい」と3代目が沿岸部の人たちの避難先の鳴子温泉の旅館に日参し始めたのでした。

そして4月21日、200人以上の避難者の方たちが、梅農場にきてくれました。
なつかしい写真。
ここには、みなさんにお餅をついて食べてもらう、と鉢巻をした夫の姿もあります。

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「で、あの時の話を聞いてないんだけど、実はどうだったの?チョコレートは配れたの?」

「いやあ、そんな状況じゃなかった。少しだけは配ったよ。後は配れなかった。」

で?

やっぱり最初に沿岸部入りした日の話は、スムーズには出てこない。もう聞くのはやめよう。

でもこの「梅見の会」から海の手ネットワークは始まりました。

その元々の始まりはチョコだったのです。