ほっかぶり市のこと

寒くなってきました。木の葉も落ちて、栗駒山も鳴子の奥の山々も雪を被りました。
寒くなると夜は外に出たくないんだけど、昨夜は道の駅の会議でした。

夜6時から9時ころまで、私たちの直売所にまつわる諸々のことを話し合います。

中で話題になったのが、先日の風ビュービューの日に開催された「ホッカブリ市」。

最初の日はまあまあの天気だったのですが、2日目の日曜日は、気温が低い上に強風、時々時雨れるという
最悪のお天気状況。その何日か前の農協祭りでは強風でテントがとんで、何人かの人が救急車で病院に
運ばれ、テレビの格好のニュースになり、何度も流されたので、中止するのかなあ、と思っていたら、やめないでやり続けるのでびっくりしたし、「よくやるなあ!」と感心しました。

大体私は最初のうち、「ホッカブリ」というのがよくわからなかった。手拭いでほっ被りするわけです。
それが何を意味するのだろう、と実は不思議だった。

 

でも計画を立てているよっちゃん始め実行委員の人たちは、忙しい時間を割いて仙台まで出かけていって
は打ち合わせを重ねていました。「海山ネットも出るんですよ!」と言われたけど、ほっかぶり市は軽トラ市だから
軽トラもないし、軽ワゴンで我慢してもらうことにしてパンジーや葉牡丹を販売することにしました。

 

軽トラ市をやる場所を得るのにずいぶん苦労してました。
有備館の駐車場なんて広いし、観光客にこの町の地場産品を宣伝するには格好の場所だと思うのだけれど、ダメということで2転3転。最終的に役場の駐車場でやることになったのだけれど、後でけっこう良い評判になっていると聞いて、だったらお客さんもやる方も楽しめる1番いいところを使わせてあげればいいのに。と思っったことです。

 

このほっかぶり市、規制が何にもない。やってはいけない、ということがないのです。勿論地場の産品を
販売して地域の力を上げるというのが目標なので、そこを外れてはいけないのですが。
ただひとつのやらなければならないことは、手拭いを被ること。

ということで私も手拭いを被り、連れて行った孫にも手拭いでほっかむりをさせました。手拭いを被ってミニSLにも  乗りました。会場を見渡すと大人も子供もみーんな思い思いの手拭いでほっかぶりをしている様は、微笑ましくてひとつのことをみんなでやっている、という連帯感がありました。

今回のほっかぶり市は第1回目ということで、ほっかぶり市発祥の地である雫石からも仙台からも石巻からも
塩釜からも、震災後にあちこちの復興催事で」ご一緒だった方々も見えていて楽しかった。

もともと企業のサラリーマン生活が基盤だった私たちは、このほっかぶり市のような場所ででお客さんと
対面販売したことがありません。道の駅で機会があった時にちょっとやっただけです。

でも、このほっかぶり市に出たおかげで私は燃えました。
よーし、この次はお店の作り方を考えよう、とかどんな形でモノを売ろうか、とか何を売ろうかなあ、とか。
考えていて楽しい、ということはこの市に参加していて楽しい、ということ。

 

何より、面白いと思ったのはみんなの手拭いを被った格好。
よっちゃんは昔風の長褞袍を着てメガホン持ち歩いていたし、みっちゃんは可愛い絣模様の綿入れ作務衣に
ブーツ。玉子屋のユージ君は黄色のつなぎに手拭い被ってその上にひよこや雌鶏の帽子被ってた。売っている卵も新しい玉子には「新人王(?)」とか「なんとかrルーキー」とか名前がついてた。                     ハーブなどを売っている魔女ママさんたちは長ーいマント風コートに手拭い被って魔女帽子被ってたけど、みんな場所に馴染んで、自由で楽しそうでした。楽しくなかったら、あんなに笑わないもの。

特別にこの日のために用意をしたものをみんなが着ているわけではなくて、この町ではTPOに応じた普通の
恰好だから、またそれが私にとっては興味深く面白いことでした。

 

この次にもまた来ますよ。遠くから参加された田伝むしさんも言ってたし、東北村もまた参加すると言ってました。
私もこの次までには何か策を考えて、うんと楽しいほっかぶり販売をやりたいと思ってます。
今回は前日まで長野にいたから間にあわなかったので。

たくさんの楽しい写真は、ブログよっちゃん農場ドタバタ日記をご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新聞バッグスペインへ

11月27日。初雪です。例年より遅いのか早いのかわからないけど、年々気候が厳しいーというんではないけど、
激しくなっていっているのを感じます。

雪が降ると、昨日まで晴れていたのにドカッと降って、切り花用のハボタンが全滅したり、ハウスが壊れたり。
根雪なるのかと思えば翌日には晴れてサーッと溶け、午後になったら冬なのに雨が降ったり。
寒気団も強烈で、これまで経験したことのないマイナス15℃になって、水道管が破裂したりポリバケツが割れたり。

付いてゆけないよ。いったいどうしたいの?と問いかけたいようなここ1、2年の気候の変動。
ああー、また強烈な冬がやってきます。不意打ち強烈気候団といった感じ。

 

一昨日くらいから、諸々、起こってくる事柄が多くて私の頭もどれか忘れそうなくらいにめくるめいています。

これまで海山ネットを支え続けてくれていたNPO事務局KJから海山ネットワークの活動を案内するリーフレットの
スペイン語訳ができました、というメールがきました。

この新聞バッグスペイン行きというのは、KJの娘さんがスペインに行ったり、最初の頃からご新聞バッグを販売し続けてくださっている東京恵比須のギャラリー、まぁるの経営者であるKさん、そしてスペインにおられるミゲルさんのご協力により、スペインのマドリードでの新聞バッグの展示が実現したものです。新聞バッグの展示ではないのですが、紙を中心とする展示イベントに一緒に入れて頂いているのだと思います。

 

度々ミゲルさんよりのお手紙や、これからなさろうとするイベントの内容、マドリードでの展示に来られるマドリードの
著名な方々のことなど、知らせを受けていたのですが、ミゲルさんの英語も第2外国語なら、こちらも英語もおぼつかないうえにスペイン語なので、どうしたものか、と頭をかかえるような思いでしたが、この度、上智大学の先生方のご助力を得て、立派な「海の手山の手ネットワーク」リーフレットスペイン語版ができあがりました。

東北大震災後、後先なく始めた海の手山の手ネットワークの活動が、このような形でスペインで紹介されるなど、
想像もしなかったことで、大変に光栄です。

 

KJや娘さん、そしてギャラリーまぁるさん、ミゲルさん、N先生、ご同僚のスペインの先生のご尽力に
敬意とともに深く感謝申し上げます。

のぶちゃん、さおりちゃん、そしてみんな。スペインまで行っちゃったよ。
ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

カラスめ!

 

このところ連日用事があって、買い物もきちんとできていなかったので、今日は道の駅とその他の出荷を
終えてから、近くのスーパーに腰を据えて買いものに行きました。

買うものがけっこう量あって、重そうなので、普段は持って行くのを忘れるレジ袋不要のピンクの籠持って、
カートを押して店内に入りました。

台所用洗剤やら電球やらネコ用毛布やら買って、今夜のおかずのおでんの材料だの卵だのをピンクの籠に
入れました。満杯になったピンクの籠の一番上にキッチンペーパー2個置いて、ガラガラとカートを押しながら
車のところに戻りました。

車のドアを開けてカートからピンク籠を入れようとしたところが、なんと、真っ黒いカラスがキッチンペーパーを
押しのけておでんの材料のさつま揚げを食べてたあーッ!!

 

頭にくるーッ!

ああッと驚いて「こらあッ」と怒鳴ったらピョンと下に降りて足元30センチくらい離れたところで、咥えた分全部
食べて飛び去っていきました。

カラスめ!

カラスの食べ残しは食べたくないよ。何つついてるかわからないから。

実はこれで2度目です。

前回の時は、ほら、スーパーで蓋を切り取ったダンボール箱が置いてあるじゃないですか。
あのダンボールに買った物入れて車のところまで歩いていたら、まったく頭の真上後ろからきて、さーっと
韓国のりかっさらって行った。

ある時はおじいさんがお肉のパック持っていかれていた。
ある時は入り口に置いた自転車のカゴの中の荷物を熱心につついていたけど、「まあ、あんたたちも腹減るよね」
なんてちょっと追い払って見過ごしました。

娘に

「お母さん、カラスなんかになめられていいのッ!」
と言われてもねえ。

これからはピンクの籠の中に袋を入れてしっかり口を縛るようにと、注意されました。

カラスめ!

 

 

 

 

 

 

 

新生海山ネットミーティング第1回目

今夜はお世話になったNPOとは離れて、新しくなった海山ネットの第1回目の会議でした。

インストラクターなしでは海山ネットはなりたたない。
というわけで、今夜の会議には新聞バッグインストラクター2人にも参加してもらいました。

非常によかったです。
新聞バッグを拡散するとか、仕事をつくるとか、頭で考えることで会議をしている海山隊長よっちゃんや
私は、実際に新聞バッグを作っているインストラクターがどんなことを思い、どんなことに困ったり不安を
持ったりしながら新聞バッグを作ってくれているのか知りません。

今抱えている重要なお仕事はお客様に新聞バッグの使い方とか、よさを伝えなければならないという
目的があるので、インストラクターであるあやさんとかのんちゃんn意見を聞いてみると、出ましたでました。     良い意見が。

 

現在はだいぶん仕事が詰まってます。

これまで以上にインストラクターと緊密に連絡を取り合って、インストラクターの意見を取り入れて
やっぱり楽しいこといっぱいの海山ネットをやってゆきたいと思ってます。

 

 

 

言葉を紡ぐ

朝、テレビで福島の詩人和合亮一氏のインタビューを見ました。

記録する。文字に書く。文字だけでは語れない。語るのは言葉。言葉の架け橋。

震災後6日目からツイッターで、被災した悔しさ、恐ろしさ、悲しさ。心の咆哮を書き続けておられる詩人。

和合さんの語られる言葉のひとつひとつが腑に全く落ちました。

だいぶん前、ほんとにだいぶん前。
海山ネットの経済状態が心配で、活動を続けるためには何かお金が入ってくることを始めなくてはならないと
手拭いを作って売ることを思い立ちました。

日々、お餅を搗いて販売したり花のタネをまいて育苗して販売したりはしているけれど、デザインとか染めとか
難しい手順がありそうな手拭いを作るなんて雲を掴むような話で、躓く度に心折れそうになりましたが、
そこが執念で、なんとかかんとかの紆余曲折を経て、手拭いを販売するところまでこぎつけました。

私はデザイン力なんて「まったくない!」と自信を持って言えます。
誰かデザインをしてくれないかしら、と日々アンテナを立てていたのですが、そんな時に心にとまったのが
たまたま知り合いのお宅で見かけた福島在住のTさんが彫られた版画の年賀状。

美しく優しい色合いの福島の自然が描かれた版画の中には点点々と放射能が降っていました。安らかに暮らしていた福島の日々を奪われた怒りと、原発事故がなかった福島を懐かしむ優しい絵。

あれからずいぶん時間が経ってしまったけれど、版画家の岡澤さんがTさんの版画を手拭いにしてくれました。
1枚1枚岡澤さんの手仕事によるオリジナル手拭いです。手拭いの生地さえもきちんと厳選されています。

Tさんとの約束を守れたこと、私はとても嬉しいです。

岡澤さんから手拭いが送られてきたら、一番にTさんに「遅くなってすみません」とお手紙を書いて送ります。

 

 

さっき、コンコンコンと勝手口のガラスを叩く音がしました。
扉の向こうに立っているのはショウエイさん。きのう南三陸へ行ってきたそうで、生きているアワビを持ってきて
くれました。
「置いてったら困るよー」と言ったら、ちゃんと「やってやるから」とアワビやホタテ用のヘラを取り出して
料理してくれました。よっちゃん宅にも持って行って、やっぱり料理してきたそうです。
梅農場んも行ってきた、と。
ということは、よっちゃんちも、SOさんちも私んちも今夜はみんなアワビだね。

こういうの、ほんと、嬉しいです。

ショウエイさんと私の会話。
「ショウエイさん、金持ちになろうよねえ」と私。
「ここにいるからにはな、オレもなんかやんねえーと。そう思ってる。」
「一緒にやろう、やろう。」
「みーんなでなんか作って利益を分配したらいいからな」とショウエイさん。
「違うよ、私たちは仕事を持ってるから、海に戻るまでショウエイさんたちが儲からなきゃいけないのよ。」
「そうか、やろう、やろう」とショウエイさんは帰って行きました。

 

正直、ショウエイさんの故郷である今の南三陸町志津川の空爆の後のような現実を見ていると、これが
更地になったとして、仕事場なんかできるのか、とどうしても思ってしまいます。川の水位はどんどん高く
なっているし。
だから、更地になったら国が買い取って(税金で土地を買い取って)、嵩上げして仕事場を作る、と
いうことなんだろうけど、「嵩上げしたってまた津波がくるだろうから意味ない、意味ない」というのが
大方の意見。

 

高台移転という言葉があるけれど、地域住民がまとまって同じ仮設に住んでいるのなら、計画は進むかも
しれないけれど、南三陸の場合抽選で仮設に入居したから、ひとつの仮設住宅にいる住民の方々の
元いた町が違うのね。だから集団移転というのはとても難しいし、賛成者は4割もいない。

4割にも満たないのは「いないのと同じだ」というのが私が聞いた多くの意見。

見聞きしたこんなことを私も書き続けていこう、と思っています。
頭が老化して、奥行きのある言葉は紡げないけれども、私なりに。

はい、今夜のおかずです。

そして、もうひとつ。

また今日も長きにわたって東北を応援してくださっている福岡の手仕事の先生からキルトの作品が届きました。

もう、どれだけ送っていただいたことか。
こうして私たち海山ネットは活動を続けることができています。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

最後のレモン

10年あまり前、首都圏から田舎で暮らすことを決意して、熊本へ、新潟へ、国東半島へ、宮城へ、と住まいを
移した、仲間4人。

熊本へ行った友人は、引っ越す直前の検診でガンが発見され、余命2か月の宣告を受けて、帰らぬ旅への準備を
終えた後に熊本のホスピスに入り、宣告どおり2か月で亡くなりました。

両親と共に暮らすことを決めて新潟の実家に戻った友人は、両親を見送り、連れて行った2頭のシェパードを
見送ったのちは、首都圏での暮らしではまったく縁がなかった太極拳の実力者になり、ねんりんピックや
全国大会で活躍する日々を送っています。

宮城に来た私は、地元の人によくしてもらって宮城の土地に馴染み、何度も地震を経験し、その結果海山ネット
の仲間に恵まれて、今も忙しく元気に田舎の暮らしを楽しんでいます。

国東半島に行った友人は山の中腹の広い広い敷地に居を定めました。
自ら「終の住処なのよ」と言い、石だらけの石をどけて畑を作り、木を植え、椎茸を栽培し、筍を採り、海で泳ぎ、
採れたての材料で食事を作り、無駄にしているものは何もないというくらいにじっくりと田舎暮らしに向き合って
暮らしていました。

 

定年退職者の田舎暮らしは10年目くらいからが正念場です。このまま田舎で暮らすか、便利な町に住むかの
選択を迫られます。

私の場合は今住む場所に格別の不便を感じないのと、仕事を持つ身なのでこのまま死ぬまでここで住み
続けるという方向になってしまってますが、来た当初は全くそんなふうには考えませんでした。
ひとつの土地に6年以上住んだことがないので、またどこかに住むのかなあ、と思っていた。

美しい国東半島を「終の住処」と決めていた友人は、さまざまな理由で来春東京に戻ることになりました。

今日、「私のレモンの木の最後のレモン」が友人から送られてきました。
手紙に「黄金色に染まった銀杏の木の下で一人でレモンをとりました」とあります。
どれほど離れ難いことか、と私は彼女の心を想います。

 

彼女の最後のレモン、大切に大切に味わいたいと思います。

彼女が東京に戻ったら、また以前のように東京で会えるのが楽しみです。

長野から東京にもどった版画家の岡澤さんからも、長野からの贈り物が届きました。
一緒に写真に撮りました。

きれいなレモンでしょう!

 

 

 

 

 

1000年に1度の災害

今日も1日、時雨でした。雲が来たら降って、雲が行ったら照って、また降って、照っての繰り返し。
風が強くて寒くて、虹が同時にふたつも立ってました。最初のが消えないうちに、また次が、という具合。

それだけ天気が不安定ということでしょう。

 

きのう、南三陸に行って思ったこと、をちょっと書きます。

去年の大震災の後、ガレキの処理だとか仮設住宅のことだとか自分ちの後片づけだとか、毎日毎日がやること、
考えることで目いっぱいの時にはほとんど意識がなかったのですが、今現在のように
ガレキが減って塩水に浸かった木が伐られて、流れ残ったコンクリートの建物が解体されてと、なんとなく
全体の形状が見え始めて来たら、「これが復興なのか?」というような思いが湧いてきました。

これまでの2年近く、片付けて片付けて片付けて、とやってきたわけだけど、それって「復興の準備じゃないの?」
というような訝しさ。

全部きれいになったとして、目の前に海が見えて、防潮堤がなくて。
それでどうするの?というような。

仮設住宅には菊の師匠のような方たちがまだたくさん不自由な生活をしながら先の見通しを探っておられる
わけだけれど、以前のように仕事がし易い環境に何時戻れるのか。まだ何にもないですもの。建てようもないし。

全然答えが出ない。出てからが復興の始まりじゃないのかなあ。

東京辺りに行って、「もう復興はだいぶ進みましたか」などと問われると、どう応えていいのか返事に詰まります。

千年に1度の災害という言葉が改めて心に沁みます。
福島にしろ東北沿岸部にしろ、自分たちではどうにもできない災害。
仕事がなければ究極的には土地を離れるしかなくなる。

今は農村も都会も仕事を得るのは大変だけど、でもやっぱり忘れてはいけない、日本中で手助けしなければならない大災害なんだ。とそんなことを思いました。

 

さて、今日はお楽しみ。よっちゃん夫妻がきのう歌津のK子さんから頂いたブリをショーエイさんに料理してもらって 届けてくれました。  さすがショーエイさん。海の男です。でっかい頭まで届いて、夫にアラ煮にしてもらって
大変美味しく頂きました。

ショーエイさんは南三陸の船乗りさんですが、南三陸の復旧なるまで、今は私たちの町の梅農場の近所に住んで 梅農場の仕事をされています。よっちゃん農場の看板奥様みっちゃんの相棒のんちゃんのパパです。

刺身用の3枚下しは、明日南相馬のあやさんにも届けて、みーんなで食べます。
ありがとうございましたー。

 

 

 

 

 

新聞バッグをとりに南三陸へ

今日は滋賀県の(株)ウルズさんに大量の新聞バッグを発送する日。

道の駅でのお餅の仕事を終えると、そのまま南三陸へ。スムーズに行っても1時間半あまり、ちょっと混んだり
すると2時間かかります。

送れば簡単なんだけど、新聞バッグは嵩張るので運送料がバカにならないのです。昨日、一昨日の
ほっかぶり市でみんな疲れているので、私が行くことにしました。

昨日は悲しいような大荒れ天気だったのに、なんとまあ、今日はポカポカいい天気。
スムーズに行って12時過ぎには南三陸に入りました。

今南三陸は、凄い状況です。流失した家の土台の撤去が始まったので、コンクリートのガレキの山だらけ。

なんともいえない異様な光景。シリアとかパレスチナとかの空爆の跡みたい。

こうして少しずつ進んでいく復興?の様子を1、2か月毎に見ていると、流石に1年8か月経って壊れた
ものは片付いてきたなあ、という感じがします。まあ、片付いてはいませんけど。荒々しい凄い光景とは思うけど。 でも流れ残った傷んだコンクリートの建物は解体され、家の土台もなくなったら、後には広々とした土地が残る
んだろうなあ、と思います。

春には青草が生えて、夏には夏草に覆われて・・・。

そしてどうなるの?

家や仕事場は建てられないでしょう? 地盤がうんと下がっているもの。
嵩上げなんてこんな広いところできるのか?埋める土なんてどこにあるの?と素朴に思います。

新聞バッグインストラクターのsaoちゃんやK子さんの家です。
素敵ですねえ。いかにも海のお仕事の人のお宅ですねえ。

海の音なんか何も聞こえない。海はどこにあるの?と不思議になるほど木々に囲まれた環境ですが、
下っていくとすぐに海があるとかで、K子さんはわかめのタネつけの仕事の最中でした。

今タネをつけるわかめは2月頃には採れるんだよ、とおじいさんが教えてくれました。

養殖わかめの根っこはこのロープに挟み込んだちっちゃく切ったわかめから出るんですって。わかめは海のそこで生えているもんだと思っていた私はびっくり!根っこのほうにメカブができるんですって(?)

海から戻ってきたk子さんと裏の仮設住宅からおりてきたS子さんにできあがった新聞バッグを積んでもらって
1時にはUターン。

今日の便に間に合うようによっちゃん農場に到着しました。

よっちゃん、みっちゃん、のんちゃん、私で検品、発送作業終了。

今日の収穫。K子さんから大きなブリを2匹頂いてきました。のんちゃんのお父さんのショウエイさんが料理してくれる
そうです。明日が楽しみです。

 

 

 

 

 

長野二日目

千曲市一泊の夜はホテルのトイレのタンクの水が少量だが流れ続けて気になって眠れず。
がまんして寝ても目が覚めれば流れる音が聞こえ、ついに明け方3時半頃からなんとかして水を止めようと
悪戦苦闘。潜って水栓を探せど見つからず。

遂にタンクの蓋をあけ、岡澤さんから頂いたプレゼントの袋の紐を細くほどいて丸い風船に結び付け、上げたり下げたりして最後に固定してやっと水が止まりました。寝た気がしなかった。 続きを表示

千曲市で楽々房「工房展」

長野へ行ってきました。

宮城の県北から長野県千曲市まで、朝8時46分の新幹線に乗ったら、到着は11時46分。
大宮で新幹線を乗り換えて、上田でしなの電鉄に乗り換えてもこんな短時間で着いちゃうのだから意外!

今長野県の山々は紅葉の真っ盛りです。針葉樹が多いので、東北の紅葉とはまたちょっと違った雰囲気です。 続きを表示