せつないなあ。

朝の道の駅のバッグヤードで。

毎朝、だいたいおんなじ時間帯で顔を合わせる生産者はだいたい同じ顔ぶれです。
私は毎朝9時過ぎ。農家のお母さんやお父さんがたはもっと早いです。

今日は農家のマイコちゃんが嘆いてました。
「気持ちのいい秋になったとは思わない。まずはらずもねどこ嫁さきた」
ええっ?聞きなれない言葉に思わず値札を作る手を止めて振り向きました。

「なんてったの?今。秋が気持ちよくない、と言ったの?」
いつも元気なマイコちゃん。お歳は60未満くらいだけど、今日はなにやら精彩がないです。

「らずもね、らちもないとこに嫁に来たもんだと言ったの」
10年住んでも宮城の言葉に慣れない私に、笑いながら説明してくれました。

「なんで?どうしたの?」

「機械が壊れて修理代かかるの。1年かかって米作って収穫しても機械の修理代が80万円。
80万だけじゃない。共済かそんな金払ったら100万円は越す」

言葉もありません。                                                        農家の奥さんの仕事はお米作るだけじゃない。野菜を作って山菜とって塩漬けして、
草刈ってと朝早くから日々働いて、田んぼに肥料入れて水管理してやっときた収穫の秋に1年分の
働き代がぜーんぶ持ってかれるような事態が起こったら、そりゃあやってられないわ。

 

そうかあ。秋がきれいだなんて気持ちにはならないよねえ。
しかし、お米を作る。米余りだとか減反だとかお米を巡る問題はいろいろありますが、でも日本人の基本の
命を守る食料であるお米を作る仕事は、もっと大切にされなければならないと思うのですが・・・。

昨年の東北大震災の時、我が家には玄米と餅米がありました。お餅屋なので餅米はたくさんあります。
停電はほぼ8日間。じーっとしていてもお腹は減るので、まあとってあったラーメン類や冷蔵庫の中身など
ほぼ食べつくしました。

味噌は毎年作るし、米もあるから大丈夫だと思っていたら長い停電で精米したお米が底をついてきた。
困りました。さて、ビンで搗くか、とも考えた。

でもこれだけこの地に住んでいるのです。誰かに頼めば精米をわけてくれるかもしれないと聞いてみたら
誰一人として、あるよ、との答えはなかった。

そこで考えたのです。みんな最後の命綱である米をよほど余裕がある場合を除いてはわけてもらうことは
できないと。今は米を売らない人が作るのは自家用飯米くらい。そんなに余分なお米をたくさん作っている
時代ではありません。私の母のように着物を持って闇米を求めた戦後のひと時期とは全く違う。

 

これは大変なことなんだと思い知りました。

4歳の孫がいるので放射能の心配がないお米を2袋60㎏。
自分たちの飯米を2袋60㎏。常備するようになりました。

先日の車座ミーティングでご一緒した東京からみえたリーダーの先生。
私はいつも60㎏常備している、と仰ったけど東京の人で珍しいなあ、と思いました。

「農家なんて継ぐものじゃねえ。長男には帰ってこいとは言わない」
マイコちゃんの嘆きは続きます。聞きながら「せつないなあ」と思います。

さんざん都会で消費生活をして、その後農業地に住んで生産をする暮らしを知りましたが、生産は人の暮らしの中で
最も基本に大切な仕事ではないかと今は思うようになりました。

マイコちゃんがお米の収穫が終わって、「ああ、やっと終わった。気持ちのいい秋だー!」と言える日が早く来ることを願います。

 

 

 

 

 

 

もうすぐ新聞バッグコンクール

昨年の秋、初めて参加して、被災地と非被災地の生活感覚のあまりの違いにガックリとした新聞バッグコンクール。
その3回目の開催日が間近に迫ってきました。行われるのは新聞バッグが生まれた土地、高知県四万十川の
中流域にある町。

昨年はまだ新聞バッグの制作を始めて間もない頃で、「コンクールに参加しませんか」と問い合わせがあった時
には、「私たちは日本一の新聞バッグを作れるんだ」と張り切りました。

作り方というのはまだそれほど自信があるわけではないので、地震、津波という1000年に1度の災害が
起こっている土地での新聞で作るんだぞ、という、まあ、たぶんその話題性に軸足置いての気持ちの高揚だった
と思います。

 

まず新聞選びから始めました。

3月12日の震災翌日の新聞は1枚です。地元紙は被災して新聞を作れなくて、新潟まで送って印刷されたという
貴重な1枚の新聞紙。これは使うわけにはいかない。ほんとにほんとに悲しい記事ばかりで、新聞バッグ向きの
紙面なんて見つからない。それでもその中からちょっとでも希望の灯がみえるようなものをみんなで探して
作ったんだよねえ。

今鳴子で避難生活を送っている南相馬のあやさんは、その頃炎天下の梅農場の枝豆畑で、枝豆採りの車に
くっついて歩いて枝豆を採る仕事をしてました。
津波で流された南三陸新報社の記者であるOKさんが持っておられた新品の新聞紙を頂いて、そのダンボール箱を
持って、「あやさーん、新聞もらってきたよーッ」と枝豆畑を走ったことを思い出します。

でも残念ながら1等賞をもらうつもりで作った新聞バッグは、ようやっと主催者である四万十ドラマの畦地社長の
お気持ちで、あやさんの「前へ」という題の新聞バッグだけがなんとか入賞になりました。
副賞をもらって、みんなに持って帰れる、と嬉しかったです。

 

そんな思い出がある新聞バッグコンクールですが、さて今年は?

どれどれ、と鳴子のあやさんの住宅にコンクール用の新聞バッグを見に行ってきました。
写真で出したいけど、コンクール用なので出すわけにはゆきません。

でもとてもユニークだった!

彼女は中学1年生の娘のakariちゃんと暮らしています。鳴子の外れの温泉街が全部見える見晴らしがいいというか、変わったところに住んでますが、その家の広いことに驚きました。
あやさんは鳴子がよくて住んだわけではなくて、原発爆発当日一緒に避難したお友達が鳴子にきたからここに
住むことになったのだけれど、今はお友達は南相馬に戻り彼女たちは残ってます。

ここはもしかすると雪が多くて寒いだろうなあ、とは思うのですが、いったん出ると自立とみなされるので、移転
するわけにはいかんのだなあ。しかし広くて昔の家なので寒いです。彼女は元気よく立ち働き、私に夕食まで
御馳走してくれたのですが、私は炬燵に潜って動けない図。

 

よっちゃんから、コンクールにあやさんや、akariちゃん、よっちゃんちで仕事をしているのんちゃんを新聞バッグ
コンクールに連れて行く旨のメールがきました。

3人とも四万十新聞バッグの作り方の講習を受け認定されたインストラクターです。
「あやさん,のんちゃん、共に故郷を失った被災者として目の前に『新聞バッグを作る仕事があるんだ』と伝えたい」
それを現地から少しづつ興していく魂を伝えてほしい、
とありました。私も3人に四万十に行って日本一の清流といわれる四万十川の保全に貢献している新聞バッグ
のルーツを感じてきてほしいと思います。

南相馬に暮らしていた人と南三陸の海辺で育った人間が、四万十川の中流域まで行って新聞バッグのルーツ
を辿るなんて、面白くてすごい話だなあ、と私は一人で喜んでます。